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まちのあゆみと現況

■ 古代の岬町

本町には、縄文時代後期を中心に弥生時代の遺構・遺物が出土した遺跡として「淡輪遺跡」があり、古代から人々が住んでいた地であることがうかがえます。
古墳時代になると、大規模な前方後円墳の西陵古墳や宇度墓古墳が造成されました。また、小規模な古墳群も数多く見られます。
この時代の岬町が古代国家の中で大きな位置と役割を占めていたのを知ることができます。
本町には、「日本書紀」にも登場する紀氏にまつわる伝承も残り、その伝承地として上記の古墳や船守神社などがあります。

平安時代の橘逸勢父娘や和泉式部の伝承が残されています。
紀貫之の「土佐日記」にも「黒崎の松原」として、この地の名がとどめられています。

■ 中世の岬町

中世にはいると、本町域には淡輪荘、谷川荘、深日荘の3つの荘園が存在していました。
この時代は、生産物の流通手段として海上交通が重要な役割を果たしていたことが推測されます。
谷川(多奈川)付近は、海を通して紀伊国へ行くときや淡路島南端を経由して四国諸国にわたる際、紀州加太とともに中継する南海道の交通の要衝でした。
また、この地域は、和泉山脈を挟んで紀伊・和泉両国が境を接する国境の地です。そのため、文化的にも政治的にも紀州との関わりが深く、その影響が歴史的にも色濃くみられる地域でした。

■ 近世の岬町

太閤検地によって、本町域には淡輪・深日・孝子・東畑・西畑・谷川・小島の7ヶ村が成立しました。
明治22年(1889年)の市町村制施行まで、それぞれ独立した行政単位として機能していました。
この7ヶ村は江戸時代初頭、谷川藩領・大和御所藩領と桑山氏の支配下でした。その後領主が変遷し、17世紀後半以降は土屋氏を藩主とする土浦藩の飛地領となりました。
幕末には、この沖でも外国船の出没が頻発し、谷川の観音崎や豊国崎などには砲台がつくられました。

■ 明治・大正・昭和の岬町

明治に入り、廃藩置県によって本町域の7ヶ村は堺県に編入されました。明治14年(1881年)には大阪府管轄となりました。
明治22年(1889年)の市町村制の施行により、谷川・東畑・西畑・小島の4ヶ村が合併して「多奈川村」として発足しました。
本町域は「大阪府日根郡」多奈川・深日・孝子・淡輪の4ヶ村となりました。
明治29年(1896年)には泉南郡となりました。その後、昭和30年(1955年)4月1日に多奈川町・深日町・孝子村・淡輪村が合併し、「岬町」が誕生しました。

明治36年(1903年)、南海電気鉄道が大阪から和歌山まで開通しました。
当時、本町域にできた停車場は「深日駅」だけでした。その後、明治43年(1910年)には淡輪駅ができ、南海電気鉄道が淡輪遊園の開発など観光に力を入れ始めました。
大正期には、淡輪遊園はツツジや桜の名所として知られました。

産業としては、漁業や農業、林業が盛んでした。また、近世以降全国的に販売され、明治期にも「谷川瓦」の名で有名となった瓦の生産が地場産業として盛んでした。
第二次世界大戦を契機にして、昭和17年(1942年)多奈川・深日地区に軍需工場が設置されました。その結果、現在の南海電鉄多奈川線が開設されました。 戦後、軍需工場跡地には、関西電力多奈川発電所ができました。
淡路島や四国と連絡する深日港が整備され、みさき公園やゴルフ場などのレクリエーション施設が開設されました。

■ 現在の岬町

平成27年(2015年)、本町は町制60周年を迎えました。

前述したみさき公園以外にも、淡輪地区には府立青少年海洋センター、淡輪ヨットハーバー、せんなん里海公園などが相次いで開設されました。
現在、海洋レクリエーション地域として脚光を浴びています。

淡輪地域においては宅地開発が進み、現在では本町人口の約半数を占めるに至っています。その一方で、町全体では人口の減少や高齢化などが進んでいます。

また、関西国際空港二期事業に関連した土砂採取地について、今後の跡地利用がまちを大きく変えていくものと予想されます。

現在の新しい総合計画づくりから、住民・事業者・行政が協働して取り組む21世紀の岬町づくりが始められたところです。

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